20140330

愚行を固執すれば

これも北杜夫から教えられた言葉だ。

アタオコロイノナに並んで、かなり長い間謎の言葉だった。

曰く
愚行を固執すれば賢者となるを得ん

それが引用されている部分を引用してみようと思う。

世の中にはいろいろ都合のよい文句がある。たとえばウィリアム・ブレイクは次のごとく言っている。
「愚行を固執すれば賢者となるを得ん」
更に、
「過度という道こそ叡智の殿堂に通ずる」
これらの箴言こそ、私が見つけ出して得々となり、ボロっちい西寮での生活をやりおおせた呪文のようなものであり、守り言葉でもあった。

「小さき疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)」という章はこの文章で始まっている。

既に私は高校生になっていた。何かにつけて激しくバランスを欠く傾向を自覚していた私は、この言葉に歓喜し、日記に書き写したことを覚えている。

長いことその原典が何なのか分からないまま放置しておいた。分からないままと言うよりは、分かろうとしていなかった。北杜夫の言葉として理解していたかったのだ。

今日ふと、この言葉を思い出し、原典を探し出したくなった。


意外とすぐ見付かった。
ウィリアム・ブレイクの詩(と言うのか予言書と言うのか)『天国と地獄の結婚』がその原典だった。
Webにはその全文が絵と共にupされていた。

William Blake
The Marriage of Heaven and Hell
この中に出て来る。

愚行を固執すれば賢者となるを得ん の原文は
If the fool would persist in his folly he would become wise.

過度という道こそ叡智の殿堂に通ずる の原文は
The road to excess leads to the palace of wisdom... for we never know what is enough until we know what is more than enough.

だと思う。

しかし難解な詩(?)だ。
絵と文が合わないとしか思えない部分も散見する。

北杜夫も読んだのだからと必死になって読んでみたが、ウィリアム・ブレイクが何を言わんとしてこの作品を書いたのかも全く分からなかった。

この作品に独力で辿り着くとは、一体どの様な読書をしていたのだろうか?
旧制高校生恐るべし。

20140319

断煙500日

もう、全く吸いたいと思うこともなくなった。

煙草を吸っていたことも忘れそうになる。
アプリで教えて貰わなかったらこの日が来たことも気付かずにいたかも知れない。

断煙してから500日が過ぎた。

1日20本で計算しているので、吸うはずだった煙草の本数、つまり吸わずに済んだ煙草の本数は10,000本にのぼる。

もともと収入が少なくなることを直接の切っ掛けとして始めた断煙だった。
なので手元に22万円が残った訳ではない。けれどその金額を燃やさずに済んだのだから良しとしなければならない。

時折、道に煙草の吸い殻が落ちているのを目にすると、そう言えばこれを吸っていたのだな…としみじみすることもあった。

甘いものや柿の種など、他のものに対する依存も、もうなくなっている。急かされるようになにかを口にすることはない。

自分を自分の意のままに過ごす事が出来ることは、何よりも自由なことだ。

最近、図書館を頻繁に利用するようになったので、以前程本を買うこともなくなった。段々金を使うことも少なくなって行く。

煙草から自由になったと同時に、金からも自由になりつつあるのだろうか?

自由である事の開放感は、何よりも気持ちが良いものだ。

20140309

『ハンナ・アーレント』

懸案だった。

昨年の秋頃からFBなどで紹介され、とても観たいと思い続けてきた。今日、ようやく観ることが出来た。
映画『ハンナ・アーレント』だ。

秋に、松本で上映されていたことは知っていた。それを観に松本まで行こうかとも思った事もある。

数日前(定期的にチェックしていたのだが)公式サイトを見てみると、長野市で上映する事が分かった。それも応援している映画館ロキシーでの上映だ。

上映を知る前、映画を観ることが出来ない憂さを、ハンナ・アーレントの著作を読むことで晴らしていた。

ハンナ・アーレントの本の多くはみすず書房から出版されている。いや、良い本を出版してくれている出版社だと思うし、悪いイメージはない。ないのだが、いかんせん本の値段が高い。なのでハンナ・アーレントの名前を知って10年以上経つが、なかなか本を買えずにいた。

しかし、そんなときの為に図書館がある。

映画の影響だと思うのだが、『イェルサレムのアイヒマン』は長いこと貸し出しになっていた。
先週ようやく借りることが出来た。
まだ半分程しか読んでいない状態だが、それでも映画の中で、あ、あの部分だ!と思い当たる事が幾つもあった。

しかし、映画で受けるアイヒマンの印象と『イェルサレムのアイヒマン』からのアイヒマンの印象は少しずれがあった。映画では平凡な小役人と言うことだけが強調されていたが、本の中のアイヒマンはそれよりももっと卑小な存在として描かれている。
平凡なだけではない。嘘つきで記憶力に乏しいどうしようもない存在なのだ。

恐らく、ナチの行為が暴かれつつあった戦後、行われた悪の巨大さの故に、人々は、そして誰よりユダヤ人たちは悪を為した人間は、その悪の大きさに見合うだけの巨大な悪魔的な怪物であって欲しかったのだろう。

しかし、事実はそうでは無かった。

アイヒマンはどこにでもいる平凡な、そして卑小な存在だった。

その事をアーレントは『悪の凡庸さ』と呼んだ。この概念は現代に至るまで有効で重要だ。いや、現代特に着目しなければならない概念と言える。

これを発表してハンナ・アーレントはアイヒマンを擁護したと非難されたとしばしば評されるのだがここが問題ではなかったのだと私には思える。

映画の中でも裁判の記事を書き始めてすぐ指摘されているが、問題とされたのは「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」という記述の方にあったと思う。

アーレントは何故この記述にこだわったのだろうか?

この事がこの裁判によって明らかになった事だからという点が先ずあるだろう。
そして何より、全体主義は加害者側にアイヒマンのような思考停止的な非人間を量産してしまう罪とともに、被害者側のモラルの崩壊を引き起こしたのだ、と言うことを言いたかったのではないだろうか。
『イェルサレムのアイヒマン』以上に頻繁に引用されていると感じたのは、同じくハンナ・アーレントの『責任と判断』だった。

とりわけこの映画の目玉とも言える講義での「8分間の演説」で展開される主題は、明白に『責任と判断』と重なる。

この日普段は休憩時間にならないと吸わない煙草に、アーレントは最初から火を点ける。緊張していたのだ。

学生や大学の教授が見つめる中、教壇に立ち、煙草を吸いながら、彼女はこう訴えかける。

「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」

さらに、自分はアイヒマンを擁護したのではなく理解を試みたのだと主張したうえで、このようにも語る。

「アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」

『責任と判断』ではこの論点をギリシア哲学からカントまでを引用し、丁寧に解き、問題を歴史的な哲学の体系の中に位置づけている。

この思考する能力の放棄という問題を訴える中で、加害者だけでなく、被害者の側にも及ぶモラルの崩壊という論点は、どうしても避けて通れない課題だったのだろう。


『イェルサレムのアイヒマン』の中で印象的だったのはナチの内部で行われていた厳重な「用語規定」だ。

〈絶滅〉とか〈一掃〉とか〈殺害〉というような不適当な言葉が出て来る書類が見付かることはめったにない。殺害を意味するものと規定されていた暗号は〈最終解決〉Endlösung、〈移動〉Aussiedlung、および〈特別処置〉Sonderbehandlungだった。移送は〈移住〉Umsiedlung、および〈東部における就労〉Arbeitseinsatzとされた。

これと似たことを、3年程前、私たちは経験した。事故を事象と置き換え、原発が爆発した映像を見ていてもそれを爆発的事象と強弁した姿勢こそ、ナチの「用語規定」と同じ事を実際にしていた姿ではなかったか?

原発を推進してきたのは、組織性の中に埋没し、「用語規定」を駆使することによって欺瞞の思考を蔓延させ、結果的に思考停止してきた科学の、或いは政治の専門家たちだった。

そして今、私たちは再び思考を停止させ、再稼働容認という形で原発を選び取ろうとしている。


アイヒマンはどこにでも存在する。私たちは今こそこの教訓を胸に刻まなくてはならない。


私は映画を観ながら、ハンナ・アーレントの本と同じ頃読んでいたミシェル・フーコーの『真理とディスクール』を思い出していた。

その中でフーコーは知識人が行うべき行為として、自身が不利になっても勇気を奮い起こして包み隠さずに行う真理を語る行為をパレーシアと呼んだ。

ハンナ・アーレントは自らの「悪の凡庸さ」を主張することで、ユダヤ人社会から猛烈な抗議を受け、多くの友人を失った。しかし、彼女は断固考える事を放棄する危険性を訴え続けた。

ハンナ・アーレントは生涯を通じて、パレーシアを行使していたのだ。

20140307

イオンタウン Open!

今日がその日だと言うことは知っていた。
だが、油断していた。

朝、いつものようにNHK・FMでクラシック音楽を聴いていたのだ。

そこにいきなりドカンドカン、ドドドドッド、ドツタクドカンと和太鼓の音が響いてきた。

こういう展開は予想していなかった。

何事かと表に出てみた。
イオンタウン長野三輪店のオープニングセレモニーだった。

9時開店の筈だ。それ迄は平穏な日常が保たれると、何の根拠もなく思い込んでいた。
8:30の様子。

早くも3、400人位は集まっているではないか。


夏頃から、長い間放置されていた広大な空き地に工事が始まった。
それまで、近くに適当な店がなく、車で買い物をしていたのだ。


並ぶのは趣味ではない。なので開店直後に様子見に行ってきた。

凄まじい混雑だった。

見るとほうれん草とホタルイカが安い。それを買った。
レジに10分ほど並んだ。

それでも長いこと待たされたと感じていたのだが、早めに買い物を済ませたのは正解だった。

買った後、店内を落ち着いて眺めている間にどんどんレジの列は長くなり、場は修羅の相を呈してきた。

こりゃたまらん!と一旦撤退。

普段は朝の9時頃には解消する表通りの渋滞がいつまで経っても解消しない。
そのうちに何があったのか、救急車も来る有様になった。


渋滞が少し解消し始めた17時頃また行ってみた。
場内放送で、一時はレジの待ち時間が2時間を越えていたことを知った。

ほうれん草をまた(お一人様2把限りなのだ)買った。

みゆきさんが18時頃帰ってきたのでまた行く。食料品を買い込み、自宅に置いてまた出動。

都合4回も通ってしまった。


昼行った時には余りにも貧弱に思えた文具類も、ダイソーもあるので何とかなりそうだ。

ブルーチーズがない!これは痛い。

だが、何から何まで全てを一ヶ所で揃えようという方が無理と言うものだろう。


取り敢えず近くに大型の店ができた事はかなり便利だ。


夕飯は戦利品のほうれん草とホタルイカを頂いた。少し寒いが春を感じた。

20140303

名曲のたのしみ

少し失望している。

失望という言葉は大袈裟のようにも思える。だが敢えて使った。それだけ期待していたのだ。

期待していた程のものではなかった。
残念だ。


それより先に喜ばなければならない。
月に一冊ずつ買って来た吉田秀和さんの本『名曲のたのしみ』が第1巻から第5巻迄、遂に揃ったのだ。
それ程安い本ではない。しかも第1巻を購入してすぐに腰巻きに、「番組41年間の放送データをまとめた小冊子をプレゼント」と書いてあることに気付いた。

何か、こう…凄そうではないか。

それ故、古書には手を出さず、全て新刊で揃えたのだ。

正直かなり揃えるのに苦労した。楽ではなかった。
なので日に日にその「小冊子」なるものに対する期待が膨らんでいったのだ。

…少なくともCDは付いているのではないか?

先月遂に最期の一冊が届き、その日のうちに応募券を切り取って官製はがきに貼り、投函した。

一昨日それが届いたのだ。

当初、その冊子を単独で写真に納めるつもりだった。

だが届いた封筒は、妙に薄かった。

写真の右端に横向きで一部が写っているのが、件の冊子だ。

何と言う事はない。NHK・FMで放送された『名曲のたのしみ』で使われた曲名がリストアップされた、本当に単純に41年間の番組のデータだ。

物凄く良いプレゼントを期待していた私は、正直力が抜けて床にへたり込んだ。


だが、本の内容は充実している。一冊に1枚CDが付いていて吉田秀和さんの声を聞くことが出来る。
…とは言っても話だけで曲は入っていない。

やはりこのシリーズはちょっと高すぎる感がある。その旨をアンケート葉書に書いて送った。


当初、このシリーズの第5巻にまとめられる筈だった、モーツァルトに関する書籍の刊行が決まったとの報せが同封されていた。

1冊の一部だったものが3冊で企画され、それが膨らんでやはり全5巻で出されることになったようだ。

吉田秀和さんの本『モーツァルト その音楽と生涯』となる予定だそうだ。


それにもCDは付いてくるのだろうか?

いずれにせよまた出費が嵩む。