20140109

時と共に在る

かなりの充実を、生活に感じ始めている。

酷い鬱の時は、時が水飴で出来ているようで、なかなか進んでくれなくて、それに耐えることが出来ず、自分を滅ぼしてしまいたい衝動に駆られていた。

今、そうした感覚はない。

自分の存在がきちんと時と共に在り、関係は整合している。

年末からミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読み始めた。
DVDで『アマデウス』を観、『うさこさんと映画』の中でそのエンディングについて「かつてフーコーが提示した「狂気」の定義そのもののような迫力が漂う。」と書かれているのを読み、フーコーは狂気をどの様に定義しているのだろうと関心を抱いたのが切っ掛けだった。

不純な動機である。

だから完全な敗北だった。フーコーのフの字も解読できず、その浩瀚な書物のかけらすらものに出来なかった。

暫くフーコーは放置しておいた。

10月頃、ふと気が付くと、今迄殆ど機械的に未読を既読にするだけで、殆ど目も通すことがなかったRSS Readerをこまめにチェックしている自分に気が付いた。

英語やドイツ語の記事にも(分からないなりに)取り敢えず目を通している。

これなら難解なフーコーにも食いついて行く事が出来るのではないかと(気の迷いだが)思ったのだ。

で、11月頃再挑戦、再敗北。

そこで中山元さんの『フーコー入門』を紐解いてみた。

これが正解だった。
丁寧な解説書だった。

分かり易く、それでいて肝心なところを外していない。

フーコーの知的な誠実さを良く拾い上げた内容だった。

この本で『狂気の歴史』の大筋を教えて頂いたので、ようやく私にもフーコーは解読可能な本になった。

狂気の歴史を描くということは、実は心理学というものが誕生するための条件を描くことだった。狂気は心理学の一つの対象ではなく、心理学の成立の条件そのものであり、この心理学という学問は、十九世紀以来の西洋世界に固有の文化的な事件であった。狂気の歴史はある意味では心理学の誕生の歴史でもあった。『狂気の歴史』のサブタイトルを〈心理学の考古学〉としてもよかったのである。

この場合の考古学は、勿論フーコーの『知の考古学』を引いている。


ひとつのものが見えてくると、他のものも急にはっきりと見え始めることがある。

フーコーが少しだけ見え始めてから、観る映画、聴く音楽が急に深いところで捕まえているという実感を伴うようになった。

今迄何を観てきたのか?そして聴いてきたのか?地団駄踏みたい気分だった。

実際、クラシック音楽に限っても、この1年間で4回程、今迄何も聴いてこなかった!と思い知らされるような感覚に襲われた。急に見えてくるのだ。

そうなると今迄無為に過ごしてきた時間が途方も無く勿体なく思えてくる。

自分の身の丈に合ったものをようやく読むようになったなどと自分に言い訳をして、下らないものを読んできた時間や金もとても勿体なく感じるのだ。

ものの値段というものは、それなりに合理的に付けられていると、時々感じる。安いものはそれなりのものしかない。

それなりに値段の張る、「よいもの」にきちんと触れた方が良い。


勿体ないことをして来たと思う思いは大切だが、半面しょうがなかったとも思う。

何しろ気力が湧かなかった。

長い鬱を抜け、結構被害もあった躁状態も過ぎ、ようやく努力できる精神状態を獲得することが出来てきたと感じている。

年始としてはこの上ない好発進だと思う。

この感覚を大切にして、「よいもの」に出会いたいと思っている。

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