20130406

森林飽和

ショッキングな題名だ。
現代日本は樹があり過ぎなのか?とも思えてくる。

著者の太田猛彦氏もそれを思わせる題名のインタビューに応じている。

日本には木が多すぎる『森林飽和』の著者、太田猛彦・東大名誉教授に聞く

この本はそれを主題としていない。
少なくともそれを強調していない。

話しはやはり東日本大震災から始められている。

やはりというのは、この時期(2012年7月30日発行)に国土を論じた本で、ここから逃れる事が出来る本はないだろうと思えるからだ。

だが、震災に触れたのはそれだけが理由ではなさそうだ。

震災で破壊された海岸林が人々の印象に深く残った。

高田松原に残った「奇蹟の一本松」はその象徴と言えるだろう。

著者は破壊された海岸林を詳しく観察し、その破壊のされ方に幾つかのパターンがある事を見出している。

松に問題があったのではない。その育てられ方に問題があったのだ。

それと同時に、破壊されなかった海岸林にも目を向け、松の実績に注目する。

ここでも木が多すぎるという話しはしていない。
海岸林の再生が必要だと言っている。しかも広葉樹ではなく、あくまで松で。

その中で、地元の人の話として
「今まで気にもかけていなかったが、海岸林がなくなったら海がすぐそこにあって、とても怖い。早く再生して欲しい」
という声を紹介している。

海岸林に護られていた地元の人々でさえ、海岸林の防災機能を忘れかけていたのだ。

何故忘れたのだろう?

筆者は何故海岸には松があるのかを問う。

海岸の強風で起こる害として、飛砂がある。

安部公房の『砂の女』を例に出すまでもあるまい。
飛砂は海岸の日常風景だった。
砂に家が埋まる。そうした出来事も決して大袈裟な話しでは無かった。

その飛砂を防ぐ為に海岸に松は植えられたのだ。

けれど現在飛砂が話題に上ることは殆ど無い。

飛砂は忘れ去られていたのだ。
だから同時に海岸林も「忘れ去られて」いた。

このように、私たちは森林から離れて生活している。森林は忘れ去られている。

忘れ去られている森林は、ともすると「現代の日本ではどんどん緑が減っている」というように語られてしまう。

そうなのだろうか?

かつて、山にはもっと樹が豊富にあった。それが現代失われつつあるという自然観は正しいのだろうか?


そもそも、飛砂で飛ぶ砂はどこから来たのか?
海の砂の源は河川の上流の山地の土砂だろう。

つまり真相は、

かつて海岸地方の災害でもっとも深刻だったのが飛砂害であり、海岸林の大半はこれを防ぐために先人が苦労して造成したものである。

何故飛砂が激減したのか?
その答えは、砂が少なくなったからだと著者は言う。

確かに全国的に海岸はかつてと比べて遙かに後退した。

何故砂が少なくなったか?


著者はそれを探る為、かつての里山の原風景を古い写真や浮世絵に求める。


そこで見るのは「はげ山」が卓越した風景だ。


かつて、日本の山々は至る所はげ山だらけだった。

それは明治時代をピークとする山林収奪の結果として現れた風景だ。

著者は言う。

十七世紀中葉に顕著になった森林の劣化・荒廃は、単に農山村地域の環境変化ととらえるのではなく、日本の国土環境の変貌と考えるべきである。それは常に大量の土砂が山地で生産され続け、河床が上昇し続け、海岸から飛砂が飛び続け、それらによって地形が変動し続ける環境である。
その状態から日本は飛躍的に緑を増やし続け、現在、はげ山を見ることが無くなった程に森林は「量的に」恢復した。それが歴史的に見た現在の山林の真の姿だと言うのだ。

この視点は確かに今迄なかった。

今迄無かった視点を意識させる為に、著者は敢えて「森林飽和」という題名を付けたのだろう。

つまり、言いたかったのは樹があり過ぎると言うことでは決して無い。現代の日本の森林は、かつてとは違う時代に入っているのだと言うことなのだと思う。

私たちは今、日本の森林がきわめてドラスティックに変化している時代に生きているのである。これまで徐々に変化してきたものが、たった四、五十年というきわめて短い時間に変化のスピードを上げ、「はげ山」を消してしまったのである。
良かったと、著者は言っているのでは無い。

確かに量的には森林は恢復した。しかし日本の森林は質的に荒廃していると言っている。

このように日本の国土環境は二十一世紀に入って過去四百年とはまったく異なるステージに入った。国土管理に関わる人々はその新しい環境の中で持続可能な社会を創出しなければならない。これまでの方針の維持はおろか、その改良でも不十分であろう。私たちはこの新しいステージの上で森林や河川、海岸の管理をどのように行うべきであろうか。

この事を、筆者は最も言いたかったのだと私は考える。

まず森には「護る森」と「使う森」があることを明確に意識することである。

そう筆者は言う。
自然は手つかずが最も良いとする俗流自然観と真っ向から対立する概念だ。


将来は山地・渓流から土砂を供給することが土砂管理の一部となろう。私は「砂防とは『土砂の逸漏を防ぐ』の意味である」「砂防の極意は土砂の生産源で土砂流出を断つことである」と教えられながら学生時代を過ごした。まさにひとかけらの土砂でも出てこないほうが良い時代であった。しかし、こうした言葉は明確に否定されるべき状況が到来しており、このことが、私が「新しいステージ」と言う所以である。山地保全の新しいコンセプトは、土砂災害のないように山崩れを起こさせ、流砂系に土砂を供給することとなるのだろうか。少なくともそのような劇的な発想の転換が、新しいステージで要求されていることは間違いない。


著者はパラダイムシフトを求めているのだ。

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