20130130

北杜夫ではなかった

…、
あ。

……。

寒い部屋の中で一人でいて、小さく声をあげ、顔が赤くなるのが分かった。

北杜夫ではなかったんだ…。

これ、
…だったんだ。


懐かしさ100%で入手した古本だ。
ハードカヴァーも同じ表紙だった記憶がある。

多分、読み比べても誰もここから派生したものとは思わないだろう。けれど、犯人である私は知っている。

中学2年の時、私は『喜望峰』と言う小説を書いた。

小学2年の時から書き始め、小6迄書き続けた『虫のくに』という乱雑な(成長に従って内容が大きく変化したのだ)遊び書きを除けば、これが私の処女作と言う事になる。

私は長い間それを北杜夫のいずれかの作品からの盗作だと思い込んでいた。

けれど今回手に入れてこの『バンのみやげ話』を読んでいたところ、出し抜けに「私が盗んだ箇所」が立ち現れたのだ。

…これだったんだ。

2ページ程のエピソード。それを元に原稿用紙120枚程の長さの小説に仕上げていた。

心の準備が全く出来ていなかったところに、いきなり過去の悪事の証拠を突きつけられたような気分になって、私はしばらくの間打ち倒されたような状態になった。

何しろ出会い頭である。


私の処女作とこの作品が結びつかなかったのには訳がある。

代表作に『コタンの口笛』がある。良質の作家だと思う。だが、石森延男は雑誌『飛ぶ教室』の主幹を務めた来歴に示されるとおりあくまでも児童文学の人だ。

1970年になっても、その児童文学者石森延男の影響は受けていなかっただろう。そう信じ込んでいたのだ。

その頃夢中になっていたのは(恥ずかしい事に)むしろ、時代の寵児庄司薫だった。


記憶は急に長野電鉄の車両の中にいる私に飛ぶ。
1969年の芥川賞受賞作が庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』だった。長野駅に向かう途中で、中学生になったばかりの私はその本から顔を上げ、
「本て、面白い!」
と発見でもしたように感じていた。
そして、私は本来もっと本を読んでいた筈だ!と少し後悔していた。長い事、本から離れていたと感じていたのだ。
それはもう何年もの間、本から遠ざかっていたような、そんな後悔だった。

何と!庄司薫は私を本の世界に引き戻す役割を果たしていたのだ。長い間忘れていたが、その事を突然、思い出した。

小説家盛田隆二氏がFaceBookで庄司薫について写真付きで述べていた。それが切っ掛けだった。
表紙もこの通りだったと記憶している。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』には何か別のものが映り込んでいる。ま、これはご愛嬌!
親戚の家の大きな炬燵に入りながら、手帳に丹念に1969と言う文字を、今考えれば生涯初のレタリングをしていた。何かが始まる予感に満ちていた。

それは思春期を迎えようとしていた私という個人史的な予感でもあっただろう。だが時代もまた、その予感を含んでいた。いち早く大人(少なくとも高校生)になって、日々新しい時代が産まれ続けている東京に、新宿に行かねばならない。そんな一種の脅迫観念が私を支配していた。

やがて吹き荒れるであろう、内なる心の嵐。それに備える登山家のように、私はその手作りのノートに、慎重に!
「石森延男。私に文学というものを教えてくれた。その人を尊敬します」
などと書いたのだ。

やれ!恥ずかしい。

いや、ここで書きたいのはその恥ずかしさについてでは無い。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』と、石森延男の意外な時間的な「近さ」だ。

どう計算しても、たかだか数ヶ月。
その数ヶ月を何年もの間の様に私は間違って感じ取っていた。


庄司薫に夢中になっていた頃、私の頭の中には既に石森延男はいなかった。そして、表紙を見て思い出したのだが、高校生になったら庄司薫の小説の中の登場人物の様に、知的な会話が出来るのだろうかという当初の不安もどこへやら、『ぼくの大好きな青髭』を読む辺りで既に私は、庄司薫に飽きていた。

児童文学の人石森延男と芥川賞作家庄司薫の間は、客観的に観ると余りに近い。しかし、私の主観的な距離は、その間に途方も無い時間が流れたように感じていた。

児童文学者と芥川賞作家の間。その間で、私の幼年期は確実に崩壊したのだと思う。


庄司薫に飽きた私は、それでもやはり思い込みの強い少年だったらしく、ヘッセに出会い。ゲーテに出会い。出会う度にこの詩人たちは私の為に作品を書いていると確信していた。

この時期、夥しい文学者との出会いがあった様だ。石森延男と庄司薫を除けば、それは今の私にそのまま続いている。
そして、…

その作品を全て読んだ。そんな作家はそう何人もいるものでは無い。その希有な存在のひとり。高校を卒業するまで夢中になって貪り読んだ北杜夫に、処女作を書いたその年、中学2年の時出会ったのだった。

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