20121217

始まりの終わりでもなく、終わりの始まりでもなく

自民党が大勝した。
こう書くのも客観性を欠くだろう。数字を詳しく見てみると、民主党が大敗したと言う現象が起きたのだと分かる。

だが、その結果、増税・憲法改悪・TPP参加・原発推進・国防軍…etcの自民党が安定議席を確保すると言う現象に繋がった事は否定出来ない事実だ。

率直に怒るべきなのかも知れない。 だが、誰に向かって怒ったら良いのか分からない。日本国民に対してなのか?ならばその怒りは自分自身にも向かう。私は全く努力しなかったのか?そうではあるまい。

おおかた予想出来た範囲で物事が進んでいる。それが素直に怒れないもうひとつの理由だ。怒るのにも体力・気力が必要だ。その体力・気力共に、マスコミの事前の予想に接して、そう、馴らされて、削がれてしまっているのだ。悪い意味で、心の準備が出来てしまっていた。

憲法改悪を唱える党が議席の2/3を確保してしまった。これも特筆しておくべき事だろう。

この事態を目の前にして、選挙前心中穏やかにはなれなかった。

だが、現実にその事実を迎えてしまった今になって、却って落ち着いてしまった自分が居る事に驚いている。

恐ろしい状況が現実になってしまったと言う事実は覆せまい。しかし、それと同時に、分厚い日常が営々と営まれている事もまた事実なのだ。

恐るべき現実。

確かなのは、ここ(現実)から、一歩一歩、また始めて行かねばならないという事だ。今日は落ち込んで、明日からまた脱原発の運動を始めて行こう。
2年前に比べたら、原発の闇が暴かれ、話題にされている。これは前進ではないか。

そして、改めて、平和と民主主義と言うものは、不断の努力によって獲得し、護られなければならない存在なのだという事が、ひしひしと感じられてきている。

護らねば!

政治家や財界人にとっては、戦争という手段が禁じられているのは不自由な事なのだろう。強力な交渉手段がひとつ使えないのだから。それは分かる。けれど私たちにとっては、戦争は起こされてはならない事なのだ。

その愚かさは67年前に十分に悟ったではないか。

選挙が終わった。これは始まりでもなければ終わりでもない。始まりの終わりでもなければ、終わりの始まりでもない。分厚く、融通の利かない日常が目の前に存在している。目の前に存在しているのだが、私にはそれがどこにあるのか分からずに、暫し戸惑っている。

『星の王子さま』とそれに関する本を数冊買った。戦争について、考えてみるつもりだ。

20121206

断煙1ヶ月突破

もはや遠い過去の話に思える。煙草を吸っていたことがだ。

まだチャンピックスを服用しているが、最後の煙草を吸って断煙状態に入ってから1ヶ月が過ぎた。身体はもう煙草を欲しがっていない。ただ、煙草の快楽の記憶が強烈に残っており、その記憶が煙草を吸ってみたいという気分を引き起こすことはある。まだまだ油断は出来ない。だが、要は煙草を入手しなければ良いのであって、多分薬を服用し終わっても断煙は続いて行くだろうという自信は付いてきた。

取り立てて煙草を吸わなくなって良かった事というのが感じられないのは困ったことだ。折角止めたのだが、沢山起こると言われていた「良い事」がなかなか起こらない。煙草を止めた甲斐が無いようにも思えてしまう。

仕方が無いので探してみる。

そうするとそれでも「良い事」結構ある事が分かってくる。

朝の目覚めは爽快になった。
煙草を吸っていた頃は朝起きるとすぐに咽のイガイガが気になって、煙草を吸わざるを得なくなったものだ。そのイガイガがない。何十年ぶりかで「爽やかな朝」を取り戻す事が出来た。

四六時中咳をして痰と闘っていた。それが無くなった。痰が絡まなくなった。これはかなり楽だ。声も楽に出すことが出来るようになってきた。


禁煙ノートというiPhoneアプリがあるのだが、それによるとこの1ヶ月で吸うはずだった煙草の本数は620本だと言う。恐ろしい数だ。何十年にも渡って、私は恐ろしい数の煙草を吸ってきたと言う訳だ。身体を壊さなかったのは幸運だったとしか言いようが無い。

このアプリによると、断煙の第1ステージは終わり、第2ステージに入っているらしい。

どの様な違いがあるか、最初の内は分からなかったが、次第に分かってきた。

第1ステージというのは、まだ煙草を身体が欲しがっていた段階であって、ひと月くらい経つと身体が欲しがらなくなる。けれどまだ吸いたいという気分は残っている。煙草が懐かしいのだ。その煙草の快楽の記憶を、未来への快楽や達成感に置き換えて行く段階が第2ステージなのではないだろうか?

この「気付き」は、喫煙を復活させない為に、重要な気付きだとわたしは思う。

煙草を止めてみてじわじわと分かってきた事は、煙草を止めると言うことは自由を手に入れる事だという真理だ。
出掛ける時など、煙草の存在を常に意識していた。煙草が無くなりそうになると途端に不安になり、何としても煙草とそれを吸える場所を確認する事が常になっていた。一体何度「まだ吸える」煙草を探す為に灰皿やゴミ箱を漁った事だろう。

それらの全てから、止めるや否や、一斉に開放されるのだ。これを自由のひとつの形態と理解出来なくて、何が自由だと言うのだろうか?

これまでチャンピックスを使って断煙を始めた友人がFBやTwitterで何人か居た。全て失敗に終わってしまっている。残念なことだと思う。