20110820

『ぼくは上陸している』

予約注文が始まった時、遂にこの日が来てしまった…。と覚悟を固めながら、クリックした。

遂に最後のエセー集が日本語訳され、出版されてしまった。

ぼくは上陸している(上)
ぼくは上陸している(下)
3.11以来、小説をひとつも読んでいない。気持ちに余裕がないからだと思う。

それ以上にフィクションを遙かに越えた現実が目の前に展開されていて、容易にフィクションに心を委ねる気分になれないのだ(全く!この現実をフィクションとして描いていたら、どれ程杜撰なフィクションとして批判の対象になった事だろうか)。

だが、詩だけは貪り読んで来た。ゲーテやヘッセ、そして石垣りんなど。
放っておくとどこ迄もバランスを崩してしまうわたしの精神が、どうにか平衡を保つ事が出来ているのも、これら詩人たちが、心の姿勢の取り方をわたしに示してくれたお蔭だと思っている。

21世紀は詩人不在の世紀なのではないかと思っている。或いは詩人の敷居が、不当に低く貶められているのではないのか?

詩人は超越者でなければならないとわたしは考える。超越者であるが故に、自らを語る事で、世界を語る事が出来るのだ。
詩人とはそうした存在だ。
それを真実への直感と呼んでも構わないと思っている。

しかし21世紀の初頭迄、その詩人の魂を、ひとりの科学者が持っていた事をわたしは確信出来る。

彼の文章に出会ったのは、まだ何もなしていないという事が、自分の可能性の唯一の根拠であるような頃。十代の、大都会で大学生として生活を始めたばかりの頃だった。

turbidity currentという半深海から深海底に砂や礫を運び込む堆積作用に関しての論文を探して、(その頃はそうした流れが実際にあるかどうかが論争の的だったのだ)あらゆる学術誌を漁っていた。

わたしがどうしてその雑誌、Natural History Magazineに辿り着いたのか、目当てにしていた論文はどの様なものだったかはもう忘れた。だが、その雑誌を読み進める内に、彼、Stephen Jay Gouldのエセーに初めて出会った。そのエセーが学術論文と同じ位、情熱を傾けて書かれている事にはすぐ気付いた。導入の見事さ、テーマへの滑らかな連続。そしてその深みに導く思考のダイナミズムにわたしは歓喜した。
重要な鉱脈を発見したような気分だった。

その時読んだ文章は、数年後『ダーウィン以来』という本の中に日本語訳された。その本の売れ行きの凄さに、初めてわたしは彼の熱心な読者が世界中に沢山いる事を意識した。

以来、スティーブン・ジェイ・グールドの本は、発売されるのを待つようにして、購入してきた。一時期は日本語訳されるのが待ちきれなくて、(時代遅れの様に極貧の学生であったにも拘わらず!)Natural History Magazineを購読していた事もあった。

読む度に舌を巻いた。その作品の質は毎回全く落ちる事無く継続されていたからだ。しかも休載は全く無かった。25年に渡る長い年月の間。一度も。

彼、スティーブン・ジェイ・グールドはこのエセー群の連載を2001年に終え、翌2002年に亡くなった。
彼はひとり分以上の人生を見事に完結させたのだと思う。

8月15日、わたしはこの本『ぼくは上陸している』を閉じた。
早く読みたいという感情と、読み終えるのが怖いような感情が交錯した不思議な読書体験を終えた。実際、必要以上にゆっくりと何度も反芻して読んでもきたのだ。

やはり深い感慨が胸の奥からこみ上げてきた。もうわたしの本棚の「スティーブン・ジェイ・グールド棚」は広がる事はない。彼の新しい文章を読む体験は、もう望む事も出来ない。

彼の文章と共に歩んだような、この四半世紀以上に渡る年月を、やはり、わたしはひとつの幸福の形として感ずる事が出来る。連載の初期から歩みを共に出来た事も。

科学が諸手を挙げて歓迎される時代では無くなってしまったとわたしも思う。けれど、彼の数多くのエセーは、科学的である事という生き方の姿勢が確かなものであって、一定の価値がある事であると、わたしに告げてくれる。


三中信宏さんが、自宅の本棚の写真を自身のBlog『日録』で公開していた。

目を疑った。これはわたしの部屋の本棚なのでは無いのか!

全く同じ順番に、全く同じ佇まいで、スティーブン・ジェイ・グールドの本たちが並んでいるでは無いか!

恐らく、これと同じ光景は、日本中にあるに違いない。
それを想像する事は、わたしには楽しみのひとつだ。
同じ幸福を、多くの人びとと共に分かち合う事が出来た証拠だからだ。

最後に、前述の三中信宏さんがまとめて下さったエセー集の全貌をコピペして、無駄に長いエントリになる事をお許し願いたい。



1. スティーヴン・ジェイ・グールド[浦本昌紀・寺田鴻訳]『ダーウィン以来:進化論への招待(上)』(1984年2月15日刊行,早川書房,東京,219 pp., 本体価格1,200円,ISBNなし)/『ダーウィン以来:進化論への招待(下)』(1984年2月15日刊行,早川書房,東京,221 pp., 本体価格1,200円,ISBNなし)※ハヤカワ文庫NF196:1995年9月21日刊行,ISBN:4-15-050196-3 → 版元ページ(上下巻合本)

2. スティーヴン・ジェイ・グールド[桜町翠軒訳]『パンダの親指:進化論再考(上)』(1986年5月31日刊行,早川書房,東京,289 pp., 本体価格1,400円,ISBN:4-15-203308-8)※ハヤカワ文庫NF206:1996年8月刊行,ISBN:4-15-050206-4 → 版元ページ/『パンダの親指:進化論再考(下)』(1986年5月31日刊行,早川書房,東京,258 pp., 本体価格1,400円,ISBN:4-15-203309-6)※ハヤカワ文庫NF207:1996年8月刊行,ISBN:4-15-050207-2 → 版元ページ

3. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆・三中信宏訳]『ニワトリの歯:進化論の新地平(上)』(1988年10月31日刊行,早川書房,東京,296 pp., 本体価格1,500円,ISBN:4-15-203372-X)※ハヤカワ文庫NF219:1997年11月刊行,ISBN:4-15-050219-6/『ニワトリの歯:進化論の新地平(下)』(1988年10月31日刊行,早川書房,東京,310 pp., 本体価格1,500円,ISBN:4-15-203373-8)※ハヤカワ文庫NF220:1997年11月刊行,ISBN:4-15-050220-X

4. スティーヴン・ジェイ・グールド[新妻昭夫訳]『フラミンゴの微笑:進化論の現在(上)』(1989年12月15日刊行,早川書房,東京,338 pp., 本体価格1,800円,ISBN:4-15-203422-X)※ハヤカワ文庫NF267:2002年5月17日刊行,ISBN:978-4-15-050267-6 → 版元ページ/『フラミンゴの微笑:進化論の現在(下)』(1989年12月15日刊行,早川書房,東京,358 pp., 本体価格1,800円,ISBN:4-15-203423-8)※ハヤカワ文庫NF268:2002年5月17日刊行,ISBN:978-4-15-050268-3 → 版元ページ

5. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察(上)』(1996年9月30日刊行,早川書房,東京,306 pp., 本体価格1,600円,ISBN:4-15-208030-2)/『八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察(下)』(1996年9月30日刊行,早川書房,東京,310 pp., 本体価格1,800円,ISBN:4-15-208031-0)

6. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開(上)』(2000年9月15日刊行,早川書房,東京,331 pp., 本体価格2,100円,ISBN:4-15-208298-4)/『干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開(下)』(2000年9月15日刊行,早川書房,東京,374 pp., 本体価格2,100円,ISBN:4-15-208299-2)

7. スティーヴン・ジェイ・グールド[廣野喜幸・石橋百枝・松本文雄訳]『がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち(上)』(1995年10月31日刊行,早川書房,東京,355 pp., 本体価格1,845円,ISBN:4-15-207969-X)/『がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち(下)』(1995年10月31日刊行,早川書房,東京,410 pp., 本体価格1,845円,ISBN:4-15-207970-3)

8. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで(上)』(2002年3月21日刊行,早川書房,東京,277 pp., 本体価格2,200円,ISBN:4-15-208396-4 → 版元ページ)/『ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで(下)』(2002年3月21日刊行,早川書房,東京,254 pp., 本体価格2,200円,ISBN:4-15-208397-2 → 版元ページ

9. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち(上)』(2005年11月30日刊行,早川書房,東京,255 pp., 本体価格2,000円,ISBN:4-15-208685-8 → 版元ページ目次書評)/『マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち(下)』(2005年11月30日刊行,早川書房,東京,262 pp., 本体価格2,000円,ISBN:4-15-208686-6 → 版元ページ目次書評

10. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり(上)』(2011年8月15日刊行,早川書房,東京,329 pp.,本体価格2,500円,ISBN:978-4-15-209231-1 → 版元ページ)/『ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり(下)』(2011年8月15日刊行,早川書房,東京,345 pp.,本体価格2,500円,ISBN:978-4-15-209232-8 → 版元ページ