20111203

「フクシマ」論─原子力ムラはなぜ生まれたのか

久し振りに「読まねばならなかった」本を読み終えた実感がある。
既に読んだ方も多いだろう。話題の本だ。
極めてアカデミックな本である。それはこの本では、魅力のひとつになっても、決して欠点にはなっていないとわたしは思う。何故ならば、そこにはフクシマに対して、熟考する時間があったという幸運を示す事になるからだ。

開沼 博『フクシマ』論─原子力ムラはなぜ生まれたのか
この本の殆どは、3.11以前に書かれている。大学院の修論として提出されたものだと言う。それが3.11を体験した後も色褪せずに読むに耐えうる論文になっている事には驚かされる。

恐らく書かれていた頃は「福島」以外の何物でもなかっただろう。 だが、福島は3.11の震災を体験し、それに伴う原発事故を経てフクシマとなった。

カタカナ書きにする事に異論がある事は知っている。しかし、核惨事と言っても構わないような大事故の現場として世界に知れ渡った事実は歴史上から消す事は無理だろう。

3.11を経て、福島はフクシマになった。 フクシマは何故それ程危険な存在であった(と、今になって多くの人がそれに気付いた)原発を抱えながら生きてきたのだろうか? それに対するイメージは、それぞれの人がそれぞれの体験に基づいてそれぞれに持っている事だろう。

だが、それは正当なものなのだろうか?
逆に正当な見方があるとしたら、それはいかなるものなのだろうか?

その設問に対して、この本は緻密な議論を積み重ねている。

フクシマは紆余曲折を辿りながら「原子力ムラ」となった。
では、何故そうなったのか?
開沼博はそこに「自動的かつ自発的な服従」があったとしている。

たぶんそうだろう。
原発は過疎のムラに無理矢理押しつけられたのではない。原発を受け容れたムラは、戦後の日本が大戦の「敗北を抱きしめ」た(ジョン・ダワー)のと同じように、自らも欲求して「原発を抱きしめ」たのだ。

ならば今回の原発事故を含め、フクシマが被った出来事は致し方のない事だったのだろうか? そうではあるまい。

「自動的かつ自発的な服従」に至ったその歴史的経緯はどの様なものだったのか。そこにはどの様な力学が存在していたのか。それらを見逃していては、わたしたちはいつまで経ってもフクシマに辿り着けないだろう。

それは、過去の原発事故を容易く忘却してきたように、今回の破局的な原発事故にも辿り着く事なく忘却してゆくことに繋がるだろう。

「原子力ムラの住人やそれを取り巻くもの(=内部)とそれを観察するもの(=外部)の間に埋めがたい溝がある」

緻密な議論や、フィールドワーク、そして視座の模索は、その溝を越える為に必須の作業だったと言う事が理解出来る。

わたしはこの本を読んで、フクシマに「見たいものだけを見る」態度から自らを開放する事が出来た。感謝したい。

無論筆者自身が自覚しているように、この本にはフクシマを通して、それ以外の原子力ムラを論考出来るような抽象化には至っていない。
また、3.11をとおして多くの人が自覚したような問題から、どの様に飛翔したら良いのか?その方向は?などを示唆するには至っていない。

しかし、その不備を補って、この本が提出している議論と視座には、明確に意義があると感じる。


この本が主に扱っているのは、地方にあって原発を「抱擁」した(している)ような原子力ムラだ。
だが同時にそれと共鳴し、 (飯田哲也が言うような)中央にあって特に原子力業界の関係者の間で、閉鎖的かつ硬直的な原子力政策・行政を揶揄する言葉として使われる〈原子力ムラ〉についても言及している。

興味深いのは、〈原子力ムラ〉の中に反対運動をも含んでいる事だ。

20110820

『ぼくは上陸している』

予約注文が始まった時、遂にこの日が来てしまった…。と覚悟を固めながら、クリックした。

遂に最後のエセー集が日本語訳され、出版されてしまった。

ぼくは上陸している(上)
ぼくは上陸している(下)
3.11以来、小説をひとつも読んでいない。気持ちに余裕がないからだと思う。

それ以上にフィクションを遙かに越えた現実が目の前に展開されていて、容易にフィクションに心を委ねる気分になれないのだ(全く!この現実をフィクションとして描いていたら、どれ程杜撰なフィクションとして批判の対象になった事だろうか)。

だが、詩だけは貪り読んで来た。ゲーテやヘッセ、そして石垣りんなど。
放っておくとどこ迄もバランスを崩してしまうわたしの精神が、どうにか平衡を保つ事が出来ているのも、これら詩人たちが、心の姿勢の取り方をわたしに示してくれたお蔭だと思っている。

21世紀は詩人不在の世紀なのではないかと思っている。或いは詩人の敷居が、不当に低く貶められているのではないのか?

詩人は超越者でなければならないとわたしは考える。超越者であるが故に、自らを語る事で、世界を語る事が出来るのだ。
詩人とはそうした存在だ。
それを真実への直感と呼んでも構わないと思っている。

しかし21世紀の初頭迄、その詩人の魂を、ひとりの科学者が持っていた事をわたしは確信出来る。

彼の文章に出会ったのは、まだ何もなしていないという事が、自分の可能性の唯一の根拠であるような頃。十代の、大都会で大学生として生活を始めたばかりの頃だった。

turbidity currentという半深海から深海底に砂や礫を運び込む堆積作用に関しての論文を探して、(その頃はそうした流れが実際にあるかどうかが論争の的だったのだ)あらゆる学術誌を漁っていた。

わたしがどうしてその雑誌、Natural History Magazineに辿り着いたのか、目当てにしていた論文はどの様なものだったかはもう忘れた。だが、その雑誌を読み進める内に、彼、Stephen Jay Gouldのエセーに初めて出会った。そのエセーが学術論文と同じ位、情熱を傾けて書かれている事にはすぐ気付いた。導入の見事さ、テーマへの滑らかな連続。そしてその深みに導く思考のダイナミズムにわたしは歓喜した。
重要な鉱脈を発見したような気分だった。

その時読んだ文章は、数年後『ダーウィン以来』という本の中に日本語訳された。その本の売れ行きの凄さに、初めてわたしは彼の熱心な読者が世界中に沢山いる事を意識した。

以来、スティーブン・ジェイ・グールドの本は、発売されるのを待つようにして、購入してきた。一時期は日本語訳されるのが待ちきれなくて、(時代遅れの様に極貧の学生であったにも拘わらず!)Natural History Magazineを購読していた事もあった。

読む度に舌を巻いた。その作品の質は毎回全く落ちる事無く継続されていたからだ。しかも休載は全く無かった。25年に渡る長い年月の間。一度も。

彼、スティーブン・ジェイ・グールドはこのエセー群の連載を2001年に終え、翌2002年に亡くなった。
彼はひとり分以上の人生を見事に完結させたのだと思う。

8月15日、わたしはこの本『ぼくは上陸している』を閉じた。
早く読みたいという感情と、読み終えるのが怖いような感情が交錯した不思議な読書体験を終えた。実際、必要以上にゆっくりと何度も反芻して読んでもきたのだ。

やはり深い感慨が胸の奥からこみ上げてきた。もうわたしの本棚の「スティーブン・ジェイ・グールド棚」は広がる事はない。彼の新しい文章を読む体験は、もう望む事も出来ない。

彼の文章と共に歩んだような、この四半世紀以上に渡る年月を、やはり、わたしはひとつの幸福の形として感ずる事が出来る。連載の初期から歩みを共に出来た事も。

科学が諸手を挙げて歓迎される時代では無くなってしまったとわたしも思う。けれど、彼の数多くのエセーは、科学的である事という生き方の姿勢が確かなものであって、一定の価値がある事であると、わたしに告げてくれる。


三中信宏さんが、自宅の本棚の写真を自身のBlog『日録』で公開していた。

目を疑った。これはわたしの部屋の本棚なのでは無いのか!

全く同じ順番に、全く同じ佇まいで、スティーブン・ジェイ・グールドの本たちが並んでいるでは無いか!

恐らく、これと同じ光景は、日本中にあるに違いない。
それを想像する事は、わたしには楽しみのひとつだ。
同じ幸福を、多くの人びとと共に分かち合う事が出来た証拠だからだ。

最後に、前述の三中信宏さんがまとめて下さったエセー集の全貌をコピペして、無駄に長いエントリになる事をお許し願いたい。



1. スティーヴン・ジェイ・グールド[浦本昌紀・寺田鴻訳]『ダーウィン以来:進化論への招待(上)』(1984年2月15日刊行,早川書房,東京,219 pp., 本体価格1,200円,ISBNなし)/『ダーウィン以来:進化論への招待(下)』(1984年2月15日刊行,早川書房,東京,221 pp., 本体価格1,200円,ISBNなし)※ハヤカワ文庫NF196:1995年9月21日刊行,ISBN:4-15-050196-3 → 版元ページ(上下巻合本)

2. スティーヴン・ジェイ・グールド[桜町翠軒訳]『パンダの親指:進化論再考(上)』(1986年5月31日刊行,早川書房,東京,289 pp., 本体価格1,400円,ISBN:4-15-203308-8)※ハヤカワ文庫NF206:1996年8月刊行,ISBN:4-15-050206-4 → 版元ページ/『パンダの親指:進化論再考(下)』(1986年5月31日刊行,早川書房,東京,258 pp., 本体価格1,400円,ISBN:4-15-203309-6)※ハヤカワ文庫NF207:1996年8月刊行,ISBN:4-15-050207-2 → 版元ページ

3. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆・三中信宏訳]『ニワトリの歯:進化論の新地平(上)』(1988年10月31日刊行,早川書房,東京,296 pp., 本体価格1,500円,ISBN:4-15-203372-X)※ハヤカワ文庫NF219:1997年11月刊行,ISBN:4-15-050219-6/『ニワトリの歯:進化論の新地平(下)』(1988年10月31日刊行,早川書房,東京,310 pp., 本体価格1,500円,ISBN:4-15-203373-8)※ハヤカワ文庫NF220:1997年11月刊行,ISBN:4-15-050220-X

4. スティーヴン・ジェイ・グールド[新妻昭夫訳]『フラミンゴの微笑:進化論の現在(上)』(1989年12月15日刊行,早川書房,東京,338 pp., 本体価格1,800円,ISBN:4-15-203422-X)※ハヤカワ文庫NF267:2002年5月17日刊行,ISBN:978-4-15-050267-6 → 版元ページ/『フラミンゴの微笑:進化論の現在(下)』(1989年12月15日刊行,早川書房,東京,358 pp., 本体価格1,800円,ISBN:4-15-203423-8)※ハヤカワ文庫NF268:2002年5月17日刊行,ISBN:978-4-15-050268-3 → 版元ページ

5. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察(上)』(1996年9月30日刊行,早川書房,東京,306 pp., 本体価格1,600円,ISBN:4-15-208030-2)/『八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察(下)』(1996年9月30日刊行,早川書房,東京,310 pp., 本体価格1,800円,ISBN:4-15-208031-0)

6. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開(上)』(2000年9月15日刊行,早川書房,東京,331 pp., 本体価格2,100円,ISBN:4-15-208298-4)/『干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開(下)』(2000年9月15日刊行,早川書房,東京,374 pp., 本体価格2,100円,ISBN:4-15-208299-2)

7. スティーヴン・ジェイ・グールド[廣野喜幸・石橋百枝・松本文雄訳]『がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち(上)』(1995年10月31日刊行,早川書房,東京,355 pp., 本体価格1,845円,ISBN:4-15-207969-X)/『がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち(下)』(1995年10月31日刊行,早川書房,東京,410 pp., 本体価格1,845円,ISBN:4-15-207970-3)

8. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで(上)』(2002年3月21日刊行,早川書房,東京,277 pp., 本体価格2,200円,ISBN:4-15-208396-4 → 版元ページ)/『ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで(下)』(2002年3月21日刊行,早川書房,東京,254 pp., 本体価格2,200円,ISBN:4-15-208397-2 → 版元ページ

9. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち(上)』(2005年11月30日刊行,早川書房,東京,255 pp., 本体価格2,000円,ISBN:4-15-208685-8 → 版元ページ目次書評)/『マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち(下)』(2005年11月30日刊行,早川書房,東京,262 pp., 本体価格2,000円,ISBN:4-15-208686-6 → 版元ページ目次書評

10. スティーヴン・ジェイ・グールド[渡辺政隆訳]『ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり(上)』(2011年8月15日刊行,早川書房,東京,329 pp.,本体価格2,500円,ISBN:978-4-15-209231-1 → 版元ページ)/『ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり(下)』(2011年8月15日刊行,早川書房,東京,345 pp.,本体価格2,500円,ISBN:978-4-15-209232-8 → 版元ページ

20110624

Schönauの快挙!

ドイツの小都市Schönauで、脱原発への取り組みが行われている事は、以前教えて貰っていました。
大変貴重な映像です。是非ご覧下さい。

脱原発への第一歩 ショウナウでの取り組みから

その街に、「緑のノーベル賞」とも言われるゴールドマン環境賞が与えられました。

"Grüner Nobelpreis" für die Mutter der Stromrebellen

Ursula Sladek

1986年、「黒い森」にあるこの町にもチェルノブイリの雲はやって来ました。多くの市民、特に小さな子供を持つ親たちは不安を感じたようです。
「外で子供を遊ばせてもいいの? 母乳は? それとも事故前に製造された牛乳の方が安全?」
今の日本と同じです。

10人の親が「原子力のない未来を求める親の会」を結成しました。
中心人物であるUrsula Sladekさんは5人の子供を持つ母親でした。
「以前は政治にもエコにも興味はなかったけど、自分の子どもの未来を考えたら…」

活動が始まった90年代初め、Schönauでは、街にそれまで電力を供給していたラインフェルデン発電所とさらに20年間、電力供給の独占を延長する契約の更改が迫っていました。当初、ラインフェルデン発電所の基本料金設定は電力を多く使用した方が得という仕組みだったため、市民は省エネをした方が得となるよう余剰電力の買い取りや比例料金体制の導入を訴えたのですが、発電所はそうした取り組みに冷淡な対応を取り、原子力使用の廃止にも興味を示しませんでした。
これも現在の日本と似ています。

そこでSladekさんら市民たちが考えた対抗策は、市民がお金を出して独占契約を買い取り、自らの手で市民所有の水力、太陽光、天然ガス、再生可能エネルギーによるエコ電力会社を作ることでした。

ドイツの歴史上初めて実現されたこのプラン。1997年に創立されたEWS - Elektrizitaetswerke Schoenauは、社員40人弱という小さな会社ながら、いまでは全ドイツ、10万を超す顧客に原子力と石炭フリーのエコ電力を供給する会社に成長し、新たな電力供給プランとして注目を浴びています。福島第1原発の事故の後、通常の10倍以上の問い合わせが殺到したそうです。

旧い友人がノーベル賞を貰ったような、嬉しい気分です。
やれば出来るんです!

Sladekさんは語ります。
「私たちは、のんきで、あまり後先考えずに行動してしまったから、逆に実現できてしまったのかもしれないわ」

以上自分のエネルギーは自分で決める! 独シェーナウがめざすもの より引用。

素晴らしい行動力と持続力を感じました。

20110517

carpe diem

Tu ne quaesieris, scire nefas, quem mihi, quem tibi
finem di dederint, Leuconoe, nec Babylonios
temptaris numeros. ut melius quicquid erit pati,
seu pluris hiemes seu tribuit Iuppiter ultimam,
quae nunc oppositis debilitat pumicibus mare
Tyrrhenum: sapias, vina liques et spatio brevi
spem longam reseces. dum loquimur, fugerit invida
aetas: carpe diem, quam minimum credula postero.
                                    ─Quintus Horatius Flaccus




神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、
レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。
それを知ることは、神の道に背くことだから。
君はまた、バビロンの数占いにも手を出してはいけない。
死がどのようなものであれ、
それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。
仮にユピテル様が、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、
或いは逆に、立ちはだかる岩によって
テュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。
だから君には賢明であってほしい。
酒を漉し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。
なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、
意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。
今日一日の花を摘みとることだ。
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。

─ホラーティウス

20110510

これは「脱原発宣言」だ!

重要な記者会見がありました。

菅内閣総理大臣記者会見-平成23年5月10日

37分くらいありますが、まだ見ていない人は先ず見て下さい。
話はそれからです。

-

どうして日本中が大騒ぎになっていないのか?
わたしは不思議でなりません。

菅首相が脱原発を宣言しました。
原発をやめるとも縮小するとも言っていません。
けれどわたしには脱原発宣言としか聞こえません。


--菅首相--00:08:50--
今後のエネルギー政策について、
いろいろと議論が巻き起きております。
先ず、原子力については何よりも、
安全性をしっかりと確保すると言う事が重要であります。
そして、この原子力と化石燃料というものが、
これまで、特に電力においては、
大きなふたつの柱として活用されていました。
これに加えて、今回の事故を踏まえて、
また、地球温暖化の問題も踏まえて、
あとふたつの柱が重要だと考えています。
そのひとつは太陽、風力、バイオマスといった
再生可能な自然エネルギーを、
基幹エネルギーのひとつに加えて行く、
そのことであります。
そしてもうひとつは省エネ。
エネルギーを沢山使う社会の在り方が
このままでいいのか、
いろいろな工夫によって、
或いは
いろいろな社会の在り方を選択する事によって、
エネルギーを今程は使わない
省エネ社会を作って行く、
この事が、わたくしはもうひとつの
エネルギー政策の柱になり得ると、
このように考えております。
そう言った意味で
これまでの、原子力については安全性を、
そして化石燃料についてはCO2の削減を
しっかり進めて行くと同時に、
自然エネルギーと省エネというものを
もうふたつの柱として、
そこに、これまで以上に、
大きな力を注いでいくべきだと、
このような考え方で、
エネルギー政策全体の見直しの
議論を進めて参りたいと、
このように考えております。
--


更に(重要!)西日本新聞の記者からの質問に答えて

--菅首相--
(浜岡原発について、及びその他の原発について)

--00:16:55--
もう一点、今後のエネルギーの在り方について、
原子力をどのように続けるかというご質問ですが、
現在のエネルギー基本計画では、
2030年に於いて、総電力に占める割合として、
原子力は50%以上。
再生可能エネルギーは20%
を目指すとなっております。
しかし、今回の大きな事故が起きた事によって、
この従来決まっているエネルギー基本計画は、
一旦白紙に戻して、議論をする必要があるだろうと、
このように考えております。
そう言う中で、原子力については
一層の安全性を確保する。
そしてもう一方、
自然エネルギー、再生エネルギーについては
より大きな力で推進する。
そういう方向性が、必要ではないかと、
そういう方向性を念頭に置きながら、
議論を進めて行きたいと、
このように考えている所です。
--

と、
もう記録したぞ!


(おまけ)質問に答えて

--菅首相--

--00:30:12--
それに加えて、先ほど申しあげましたように
原子力、化石燃料に加えて、
欧米の多くの国も風力や或いは太陽エネルギーに
力を注いでおります。
我が国はややこの分野で、出遅れているところがありますので、
そういった分野についても、一層力を入れて参りたい、
そういった姿勢を含めて、国際社会にも
日本の姿勢をお示しをしたいと、
こう思っております。
--

前言を繰り返し述べ、国際社会にも約束をしています。


(長めに文字起こししました。
好きなようにコピペして使って下さい。)


十分です。
これがエネルギー政策の転換でなくて
他の何なのだろう?

原発をやめるとは言っていない。
けれどわたしはそれも評価しています。
いきなり止めると言い出すのは乱暴すぎます。
その意味で
浜岡原発が止まった事には、
わたしは素直に喜べなかった。

地元との協議もなく
いきなり強権で止めた。
その事を嬉しがっていて良いのか?
それでは強権によって原発を建てるというのも
批判出来なくなる。

原発を止める事によるリスクは
どの様に評価したのか?

強権を発動させる程
浜岡原発は逼迫した状態だったのか?

止めれば安全なのか?

様々な疑問が出て来ます。

その意味で浜岡原発の止め方は拙かった。
わたしはそう考えています。


だから、
(暫くは)原子力と化石燃料による発電と共に
再生可能エネルギーに力を入れる方向に転換し、
加えて省エネを進める。
エネルギー基本計画を白紙に戻して議論する。
発言はそこまででいいと思っています。
それ以上踏み込む必要はないし
踏み込んでもならない。

地元ともしっかり協議して
段階を踏んで行かなければならない。


わたしには
自然エネルギー、再生エネルギーの方向に
舵を切ったとしか読めません。

これは記者会見ではなく
国民への演説という形で発表すべき事だったと思います。
それだけ重要な政策転換を表明したと思えます。


やってもらいましょう!
きっちりと。
やり切ってもらいましょう!

普天間の時のようにぶれることなく。

20110508

平和に生きる権利

わたしが望むものは、闘いの高揚感や連帯の陶酔感ではない。ただ、静かに暮らすと言う事だ。もう、止めようではないか!戦争を始めたり原発を作ったり、静かに暮らす事を不可能にする全ての事を、止めようではないか!

20110318

スマトラではどうだったか

東北地方太平洋沖地震は現在進行形の地震です。

M9レベルの地震の影響は?
今後の地震活動はどのように推移するのだろう?
そう考えた時
これまでの同様の巨大地震を見たほうが良いのではないかと考えています。

たとえばスマトラ島沖地震です。
スマトラでは一度巨大地震が起きたあと、
何度も大きな地震が起きています。

Wikipedia『スマトラ沖地震』を見ると

マグニチュード7以上の「主なスマトラ沖地震」だけでも

2004年12月26日  スマトラ島沖地震 (2004年)  9.1  スマトラ島北西沖 
2005年3月28日  スマトラ島沖地震 (2005年)  8.6  メダン南西沖 
2007年9月12日  スマトラ島沖地震 (2007年)  8.5  ブンクル南西沖 
2009年9月30日  スマトラ島沖地震 (2009年)  7.5  パダン西北西沖 
2010年4月6日  スマトラ島沖地震 (2010年4月)  7.8  バニャック諸島付近 
2010年5月9日  スマトラ島沖地震 (2010年5月)  7.2  バンダアチェ南南東沖 
2010年10月25日  スマトラ島沖地震 (2010年10月)  7.7  パダン南沖

こうなっています。
この後も続いています。

規模とその地震が起こった年月日、地域の拡がりに注目して下さい。

これまでの地震での「余震」とは
まったく別物クラスの「余震」があると
考えるほうが妥当だと思います。

これらの地震はひとつひとつが「本震」とされています。
しかし余震の減衰曲線に乗ってしまうのも確かな事です。
本震であるのか、余震であるのかは
解釈に過ぎません。

スマトラは特殊な地域なのかも知れません
けれど少なくともスマトラでは
このように事態は推移しました。

ある程度の覚悟は必要だと考えます。

東北地方太平洋沖地震は
3つの巨大地震が連動したものとされています。
例え僅かな時間であっても
途中で止まった事にも注目したいと思っています。
今後の余震はM8.4(気象庁マグニチュード)の余震として
推移して行くのかも知れません。

スマトラ地震のマグニチュードは気象庁マグニチュードではなく
アメリカのUSGSマグニチュードです
USGSとは世界の地震をまとめているアメリカの科学者団体です。)
USGSマグニチュードでも東北地方太平洋沖地震の規模は9.0でした。

スマトラ地震は東北地方太平洋沖地震の倍近くのエネルギーを持つ地震でした。