20080128

28日になってしまった!

うかうかと生きているうちに前回の更新から2週間が過ぎてしまった。今回は何もしなかった訳ではなく、何やかやといろいろな事があったのだが…どうだろう?自分で何をしたかと問うと、心許なくなる。

13年目を迎える阪神・淡路大震災の日があり、今年も引き寄せられるように関連記事や、過去のデータをひっくり返して様々なことを考えてしまった。

阪神・淡路大震災辺りから、「忘れられない日」「忘れてはならない日」が多くなった。とは言え、防災や減災に奔走していると言う訳ではない。
専門家の皆様の姿勢に、どうしても納得がゆかないのだ。わたしもそうであったのかも知れないが、ただ単に災害を食い物にしている方々も、想像以上に多い。

この事に思い巡らすようになったのが、阪神・淡路大震災だったと、個人的には思っている。わたしの目にようやく被災者の姿が具体的に映り始めた。
それまでは災害と被災地はあっても、被災者の姿を見ようとしていなかったと感じる。例え、被災者の方々と対話する機会はあっても、被災者を知ることは少なかった。

今年は神戸新聞社が出しているCD-ROM、『“最初の一週間”<阪神・淡路大震災>』を購入し、17日からの1週間を追体験した。

神戸新聞社は社屋が震災によって倒潰し、最初の一週間、新聞を殆ど出す事が出来なかった。その為に神戸新聞社のサイトを探しても、震災直後の記事を探し出す事は出来ない。
この事情は他の地元報道機関も同様であり、謂わば「失われた一週間」だった。

このような追体験をしていた為、1月17日前後、わたしは13年前に遡って存在していたに等しい。自分の記憶の生々しさと、しばしば闘わなければならなかった。

その後、今度は全く個人的な事情でBlogどころではなくなっていた。
半年ほど前の健康診断で肺のX線写真に陰が映り、再検査が必要とされていた。一度再検査をしたのだが、「腫瘍が疑われる組織なし」の判定に浮かれてしまい、翌月予定されていた(らしい)追跡検査を受けないまま、放置していた。

病院から電話が掛かってきた。

半ば楽しみながらではあったが、不安がなかったと言ったら嘘になる。検査日が近付くにつれてそわそわし出し、あわよくば回避できないものかと画策したりもした。

病院の、あの「治療的雰囲気」のようなものが未だに不得意なのだ。圧倒され疲れ果てる。

それでも自分の身体の中味がわかるCTスキャン写真には大いに興味があり、出来れば譲って貰いたいくらいだった。その為には結構なお金が掛かる。我が家に無駄遣いする余裕は全くない。不承不承諦めざるを得なかった。

結果は前回から変化がなく、少なくとも悪性の腫瘍と疑われるものは無いと判断出来るそうだ。今回は浮かれる事無く、事後の注意事項もきちんと聞いた。念の為、7月にもう一度検査をするとの事。
面倒なので断ったのだが、聞き入れて貰えなかった。

X線写真に映った陰は、かつての病巣の跡らしい。
あの時、わたしは本当に癌だったのだなぁ…と夢のように思う。

何もしなくても、また、あれこれあってもわたしのBlogは途絶える。
ただ、わたしという人間のだらしなさに呆れるばかりだ。

20080115

『王歌』が来る

今日の一日は昨日程寒くはなく、体調も少し戻って来たのでほっとしている。
今朝7時、Webの気象サイトには-4.9℃という数値が記されていた。一体何度迄下がったのだろうか?

若い時代には冬が好きで、寒さには滅法強かった。それが一体何だ?この体たらくは!(殆ど年寄りの冷や水状態である)と、昼間散歩に出掛ける。陽の光が程よく辺りを照らし、確かに昨日より暖かく感じた。だが寒い。
ほんの少し風が出て来たのに耐えられずとっとと退散した。

退散しつつ道路脇の樹木を見ると、木の芽はほんの少しずつだが成長して来ている。きちんと春の準備をしている。

寒さから近くのラーメン屋に強く惹かれるがお金がない。また、ラーメン程誰かが食べているのを見ると美味しそうに見えて、自分で食べるとそれほどでもないという食べ物も少ないと、いつも感じている。割と簡単に誘惑を断ち切る事が出来た。

階段を登りかけた所で何か郵便物はないかと思い付き、建物の裏側にある郵便受けを見に行く。幾つかの(女房殿宛の)郵便物を押しのける様に本が1册届いていた。今迄寒さに震えていた身体に血が通うのを感じた。

探し始めて何ヶ月経ったのだろう?ひょっとすると年の単位かも知れない。
小川国夫の『王歌』が届いていた。

部屋に入り、早速読み始める。贅肉をとことん迄削ぎ落とした小川国夫の文体がそこにあった。

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わたしとしては散歩に出掛けた事は快挙だったのだが、その日、山麓に住む方が(その方が『王歌』を教えて下さったのだが)-12℃程の夜明けから-3℃程の夕方迄の一日の移ろいをBlogで伝えて下さった。この寒さの中で、外に出て写真を撮っていらっしゃった。わたしには殆ど超人の行為としか思えない。

冷え込んでいる

昨日(14日)の最高気温は、予想では0℃だったが、かろうじて1℃あったようだ。
善光寺平はこの付近では比較的暖かな土地なのだが、今朝はさすがに冷え込み、なかなか寝付けなかった。

この数日間何をやっていたかと言うと、何もしていなかったというところが正確な書き方になってしまう。眠って(悪夢で)疲れ果て、起きてただ固まっていた。情けないが本当にそうだったのでどうしようもない。読みたい本の背表紙をぼーっと見て過ごしていた。これでは何の為に環境を調えたのか分からない。

今朝はまだ寒いが、晴れ上がり、貰い物のシクラメンに陽を当てている。植物も光合成が出来ずかなり葉が一部黄ばんで来ている。

陽が当たっている所に鉢を置くだけなのだが、太陽は意外と速く動くので、昨日迄の様にただ固まっていられない。

大陸からの寒気団が押し寄せているのだと言う。
その割に北海道や東北地方北部を除いて、冬の季節風の吹き出しの雲があまり明瞭に見られない。大陸からは吹き出しているのだが、すぐに偏西風にかき乱されてしまう。吹き出しの勢いも弱いのだろう。

寒いのに大陸からの筋状の雲が見られないのはちょっと気合いが削がれる。

花と共に太陽を求めて動き回り、気温の上昇を待つ。とりあえず動き回る事が出来る。

20080112

吹雪になる

昨日(12日)はゲーテに救われたような一日だった。
意欲が減退気味だったのだが、詩集とゲーテ論を読み、持ち直す。

夜、さほど寒くなかったので(それでも防寒具は欠かせない)ダイニングルームと書庫に使っている部屋にある本棚の入れ替えをする。

女房殿はそこをヨーガ道場としても使っているが、やわなわたしは寒くなって来ると、なかなか暖房のない書庫部屋には足が向かわなくなる。

新書類をごっそりと書庫部屋に持ってゆき、その代わりに長編を主に、小説類をダイニングルームに持ち込んだ。
書庫部屋に行った時、本棚を見て「あるなぁ…」と感じた。無駄とも思える程本棚に本がぎっしり詰まっている。一生分の本がそこにあるような気がした。本当に無駄にあるのだろう。
今年は長編小説を多く読もうと決意したのだが、まだ実行に移す事が出来ていない。その為の環境を調えようと本の入れ替えを決意したのだが、書棚を見ながら、何故こんなにわたしは本を読むのだろうと疑問も感じた。もはやこれは嗜癖と言って構わない。

楽しい。それは確かなのだがその楽しさはどこから来るのだろう?単なる暇つぶしなのであれば、もっと軽い読み物で済む筈だ。軽い読み物に宗旨替えすれば同じ量でも本に費やす金額は遥かに安く済むだろうし、とっとと捨てる事が出来る。古本屋にもそれなりの値段で引き取って貰える。
本棚にはベストセラーが殆どない。

中には軽い読み物もあるのだが、これは目下のところ処分するかどうかで思案中だ。と言ってもそれはちくま新書であったりするのだが…。もう少し、軽々とした人間でありたいと思う。もともと軽薄な人間なのだから。

本を持って、何度も部屋を往復していると、それだけで結構暖かくなる。ダイニングルームの本棚を一杯にしようかとも思っていたのだが、少し柔軟性を持たせる為に何も置かない棚も作った。

本の移動を終えた頃には雨が降り出していた。昨日から雪になるかと思っていたのだが、夜半になっても雨のままだった。

目が冴えてしまい、読みかけだったゲーテ論を読み始める。
頭の中にどっさりとある本の姿が蘇る。また、何故、これほど読む(と言うより、ある)のだろうという疑問が頭をもたげえてくる。

ヘッセ論やゲーテ論は、わたしが読む事が出来る数少ない文学論だと思う。少しは議論に付いてゆける。けれど、わたしはヘッセやゲーテの何を読んで来たのだろう?
彼らの文章にはわたしを引き込む力がある。しかし、このわたしには彼らを生かす力がない。

ヘッセやゲーテを読む事、読んで来た事を、生きるという行為の中で、何らかの力にして来ただろうか?

しばしば文学はわたしにとってひとつの糧である。その様にしばしば書いて来た。…本当にそうなのだろうか?

読んでいた文学論を閉じ、『ファウスト』に手を延ばす。
何故読むのかは文学論に譲ろうと思う。先ずは作品をきちんと読んでから、文学論を読もう。

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そのまま午前7時まで読み続けた。
気温は2℃。やはり思った程寒くなく、外は雨。

だがその後気温は上がらず、むしろどんどん下がる。午前中には雪になり、そのうちに強い北風に飛ばされて吹雪となった。

20080107

暖かな小寒だった

小寒だった昨日は週間予報では曇り一時雪だったのだが、予想より季節風が西に傾き、殆ど東西方向だった為か、雲が東北地方に流れ、朝方深い霧に包まれた他は概ね晴れ渡り、暖かな小寒だった。
今日(七草)も暖かい。

暖かさに誘われ、散歩がてら郵便局(古い呼び方だ)迄書籍代の入金に行く。電信扱いになると手数料がどえらく高価くなるのに驚く。どうやって対処しよう。とは言え近くの古書店に行くより遥かに安価い。そのように心をごまかすしかあるまい。郵便局に口座を作ればもっと安価くなるのだろうか?

山口四郎という翻訳家を知る。切っ掛けはケストナーの『飛ぶ教室』の訳がなかなか良かった事だったのだが、彼はゲーテやヘッセも訳している。潮出版社の『ゲーテ全集-1』「詩集」も彼の責任編集による。
…なかなか評価の難しい翻訳家だ。
『ドイツ詩集』を入手する。ドイツ語の韻律を非常に大切にしていて、何よりも口ずさめるような翻訳を心がけているのだろう。その点は評価したい。けれどどうも詩全体が甘くなりがちだ。つまりは感傷的なのだ。

この詩集に関しては読み終わったらBlog『夏の行方』の方に感想を書きたい。だが、原文や他の訳と比較する体力が今のわたしにあるのだろうか?

散歩から帰ると同じ山口四郎訳の『ヘッセ詩集』が届いていた。この本だけ振込指定のメールがなかなか来ないと思っていたら、本に郵便振込の用紙が挟み込まれた状態でやって来た。

仕方なく、また振込に行く。山口四郎さんに振り回された。こうなったら是非ケストナーの『5月35日』を訳して欲しい。

気力は相当衰えている。だが寒いので少しは動ける。これで少しでも暖かくなったら鬱状態の悪化は免れ得ないところだろう。恐らく悶絶していると思う。もう少し寒くなったら…それはそれでまた動きたくなくなるのだが…

ところで、小寒から寒中が始まるのだが、正月に行われていた寒中稽古や寒中水泳はどのように解釈したら良いのだろう?寒中と言えるのだろうか?
ちなみに寒中に獲れた鰤のみを寒鰤と言う。…これは氷見の旅館の女将さんから教わった事の単なる受け売りだ。

20080102

雪の中、年が暮れ年が開け

久し振りの更新となる。
誰か読んでいてくれる人は居るのだろうか?と不安になったりする。

薬も適度に効いて、比較的好調な年末年始だった。

この頃の天候は北半球と南半球でほぼ完全に分かれるような、古典的な気団の動きをしていないような気にさせられるものが多い。
年末年始には大雪になったが、これも雲の動きを追跡していると南半球からやって来た雲がインド経由で中国に至り、それが日本迄やって来た。そんな動き方をしていた。
それでも週間予報を信じて、曇り空が続いてたまに雪が降るような天候を期待していたのだが、直前になって朝鮮半島の付け根当たりで渦を巻き始めた低気圧を見るに至り、観念した。大雪になった。

だが、大陸からの吹き出しの雲はかなり西に傾き、冬らしい冬とはまだ言えない。雪雲も殆どは北アルプスでブロックされたのではないだろうか?

雪は層状に積もっている。所々汚れているのは目の前の店舗の工事現場から飛んで来た砂埃が混じったのか、年末に朝鮮半島付近で観測されていた黄砂が混じっているのかよく分からない。色は黒い。

心なしか昨年降った雪は重く、今年に入ってから降った雪は軽い。そんな気がする。寒くなって来たのだろう。

新年早々、雪掻きで腰を痛める。

腰を痛めた事を口実にして、本ばかり読んでいる。
ロマン・ロランは昨年再発見した最大の作家だった。しばらくはロラン熱が続くだろう。熱が醒めたら…一旦作家に熱を上げるとあまり醒めないわたしだが、醒めたら醒めたでわたしにとって重要な作家のひとりになるだけの話だろう。

amazonで手頃な値段の本がなかった事から他のWeb古書店を幾つか知る事が出来た。確かに古書店のオンライン化はかなり進んでいるようだ。

ロランの魂は強靭だ。どの本を読んでもその事を感じる。無論人間的な弱さもあり、苦しみの吐露もあるのだが、自由で不屈な精神の存在を十分すぎる程に信じ切っている。これは生きた時代の厳しさから考えると驚異的な事だ。或いは、生きた時代が苦しい時代だったからこそ、生まれ、愛された作家なのかも知れない。

逆に言えば彼の強さが、現代と折り合わないのかも知れない。生きづらさが強調される。自分探しが至る所で行われている。そして、人々は孤立し、更に自分を捜そうと躍起になる。

他人探しをした方が良いのだ。
一般の人が思う程、他者というものは見付けやすいものではないように思う。そして、一般の人が思うより、自分探しは意味があるものではないと思っている。「本当の」自分なるものを探しまわるならば、他者と交わるところから始めた方が良い。交わるに値する他者を発見する事の方が遥かに実りがあるだろう。

これは、一見矛盾する事のように思われるかも知れないが、孤独であれ、と言っているのと殆ど同じ事だ。

ロランはロランという独りの人間である事によって、ベートーヴェンに、ミケランジェロに、そしてトルストイに出会っている。ヘッセに向かい合っている。そのように感じる。

わたしがそうであったように、現代人はこの強靭な精神に「負けて」しまうのかも知れない。

3日は人と会う為に長野駅にゆき、時間があったので善光寺へも足を伸ばす。何と善光寺で初詣をしてしまった。その後、折角ここ迄来たのだからと(どういう理由だろう?)本屋へも行く。だが、本を見付ける体力がない。本の背表紙は目に入るのだが、何も選べなかった。