20240414

アーレント政治思想集成

どのアレント本を読んでも、必ずと言って良い程引用されている。

丁度今月は図書館から借りた本を全て読み終える事が出来たので、その本を本棚から取り出して来た。読み始めてすぐに強く引き摺り込まれた。

比較的短い、41篇の論考が収められている。それらが、息をも付かせない迫力で、次々と迫って来るのだ。


ハンナ・アレントの思考は、大戦間期という虚な、そして思想的に厳しい空間でまずは養われ、第二次世界大戦後という、困難な時代に開花した。まさに時代が産んだ思想家と呼んで構わないだろう。

だが、その環境を十全に活かしたのは、彼女が終始抱いていた、理解する事への強い衝動があった事を、本書は鮮やかに照らし出している。


ハンナ・アレントは哲学者と呼ばれる事を嫌っていた。「私の職業は政治論です」と明確に言い切っている。

ハイデガー、ヤスパースと言った錚々たる哲学者の指導を受けたハンナ・アレントは、しかし、哲学と訣別したとも言っている。これも彼女をして哲学者であり続ける事を、時代が許さなかったのだろう。

ドイツからの亡命ユダヤ人。その境遇は第二次世界大戦後の世界の中で、決して穏やかなものではなかった。何故ドイツ人はヒトラーを支持したのか?何故ユダヤ人は、迫害されなければならなかったのか?それらの疑問は、次々にアレントに襲い掛かり、アレントは必然的に、それらを理解する衝動を獲得したのだろう。全体主義とは一体何だったのだろうか?

彼女は書く。

理解することは、正しい情報や科学的知識をもつこととは違い、曖昧さのない成果をけっして生み出すことのない複雑な過程である。それは、それによって、絶え間ない変化や変動のなかで私たちがリアリティと折り合い、それと和解しようとする、すなわち世界のなかで安らおうとする終わりのない活動なのである。

この理解の定義に、私は大きく頷く。そして、自らに問いかける。私は、私たちを取り巻く世界を、ハンナ・アレントの様に明晰に理解しているだろうかと。

私には、私たちが、アレントと同様な、困難な不安定な世紀を生きているという自覚がある。そうした時代を生き抜く上で、十分に信頼できるとは、決して言えない政治家たちに命運を握られ、先行き定まらないままに、漂っている。

私もまた、それらを理解したいと強く意志しているのだ。

本書を読んでいて、その理解への衝動が、アレントと共鳴する事を、私は自分に禁ずることが出来なかった。

私には、政治的な才覚が、根本的に欠けている。その事を、大学時代、嫌という程思い知った。そんな私だが、政治は、私を避けては通ってくれない。どんなに嫌でも、面つき合わせて生きて行かざるを得ない。むしろそれだからこそ、私は世界を理解する事を強く望む。

幸いな事に、私たちは暗い時代を生きているのではない。それも確かな事。その行程を、後ろから、強い光で照らし出してくれる。ハンナ・アレントとは私にとって、そんな存在なのだ。

今回、不完全ながらも、それなりの集中力を持続して、大著を読み切る事が出来た。これからも、ハンナ・アレントやその他の著作を、一冊ずつ、私は読んで行くだろう。その根底に、今回自覚した理解への衝動がある事を、私は半ば誇らしく、半ば恥ずかし気に感じている。良い読書体験が出来た。

20240402

緋の舟

染色の人間国宝にして、随筆の名手である志村ふくみさんと、最も良心的な作家のひとりである若松英輔さんが往復書簡を交わし合っている。それだけで、内容に深みがある事を期待しないではいられない。


だが私は甘かった様だ。ゆっくりと読み進めるうちに、その手紙たちの深みが、私の予想を遥かに越えたものである事に気が付いた。

お二人は手紙の中で、リルケをそして柳宗悦などを語り合っている。その読みの深さが、私には想像も出来ないレベルで、深いのだ。

往復書簡は1年を費やし、12往復している。春に始まり冬で終わるその手紙たちは、お互いに尊敬し合い、理解し合っている事が、文面に溢れんばかりに横溢している愛情の深さから、察する事が出来る。

美しい本である。その表紙の色合い。途中に織り込まれたカラー写真の美しさはもとより、栞紐の色にまで、気を配って造られている。

その装丁の美しさが、内容の美しさと呼応している。

書を読む者として、この様な美しい本に出逢えるのは、法外な喜びである。

本の終わり付近に、編集者の粋な計らいが添えられている。

「鍵の海」と題されたコラムに、手紙たちの中に現れるキーワードを、原文の引用を含む文献集として纏めてあるのだが、これを読んで、私の力量ではとても読み解けなかった、手紙たちの更なる深みを、ようやく理解する事が出来たのだ。

手紙たちの内容に踏み込むのは、敢えて避けようと思う。その方が、この本をこれから読む方たちにとって、フレッシュな姿勢で、臨む事が出来るだろうと思うからだ。

ひとりでも多くの方と、この本の深みを共有したいと、私は心から望んでいる。

20240327

椿の海の記

水俣病を知る以前の水俣の風土が描かれている。

石牟礼道子の自伝的小説と読んで間違いはなかろう。

春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。

この1行目から、作品のリアルさと深さに嵌まり込んでしまった。


描かれているのは、みっちんと呼ばれていた子どもの頃の石牟礼道子と、それを取り巻く大人達の生き方だ。

それは、知的でも近代的でもないが、周囲の自然に溶け込んだ、素朴な、それでいて力強い生き方を営んでいた事が、伸びのある、美しい文章で記されている。

子どもだった石牟礼道子は、不思議な力を持っていた様だ。他の誰にも心を開かない、精神を病んでしまった神経どん、おもかさまや、進出していた窒素肥料の「会社ゆき」を当てにして開かれた娼館の遊女たちも、みっちんには心を開き、交流を深めて行く。

それは椿の海と呼んでいた水俣の海も同様であり、潮の満ち引きや、巻き起こる漣を通して、そこで遊ぶみっちんに語り掛けて来る様だ。

貧しい漁村の風景。そう呼んでしまえばそこで終わってしまうのかも知れない。だが、そうした近代的経済の用語とは別の、自然と調和した豊かさが、そこにはあったのではなかろうか?

近代はその豊かさを根こそぎ破壊し、やがて水俣は水俣病の荒波に押し流されていった。

それは時代の必然だったのかも知れない。失われた豊かさを振り返るのは、感傷なのかも知れない。だがそれでもなお、近代が破壊し尽くしたものに、かけがえのない大切なものを感じることを、私は否定する事が出来ずにいる。

調和した豊な椿の海。それは石牟礼道子という貴重な語り部によって記されなければ、とうの昔に失われ去っていた光景なのかも知れない。

その意味で、この『椿の海の記』は、貴重な、そして奇跡的な記録文学であるように、私には思える。

読み終えた時、私は不思議なそして深い感銘に包まれた。

20240319

怪物君

再読である。

前回は新しいiMacが届いたのと重なってしまい、十分にこの詩集に集中する事が出来なかった。加えて、吉増剛造の朗読を意識し過ぎてしまい、速く読み過ぎたとも反省していた。

今回は、意識的に、極めてゆっくりと読む事を心掛けて読んだ。


詩に書かれている事が、十分に腑に落ちる迄、ひとつひとつの節を噛み締め、それが出来る迄詩集を閉じて熟成させて読み進めた。

考えるな、感じろ!はブルース・リーの言葉だが、これは詩を読む時にも言える事だと思う。

現代詩は難解だと言われる。私はそう感じたことがない。現代国語の授業やテストの様に「作者の意図を答えよ」と問われたら、答えに窮するだろうが、それは詩を理解する事ではないと考えている。詩は、書かれた言葉を読んで、そこから何かを感じれば良い。

音楽を聴いて、作曲者の意図を答えよと問う者はいない。それと同じ事だ。

今回、『怪物君』を読んで、吉増剛造によって「書かれた」詩であるという事が、妙に説得力を持って感じられた。この詩集は書かれた言葉であるということに、とりわけ意味がある。

勿論、私は吉増剛造の声を想起する事なしには、彼の詩が理解出来ない。私は吉増剛造の声に導かれて、彼の詩の世界を旅する。

だが、この『怪物君』という詩集は、既に失われているという原稿に書かれた文字を想起する事で、理解出来た側面が大きく存在する。

その詩の言葉が、どの様な形態で書かれた言葉であったのかが、この詩集では、極限まで再現されている。その形態が必然である事を、私は素直に理解出来る。

吉増剛造の詩は、読者を選ぶ側面があると思う。彼の詩に感性を開けない者は容赦無く切り捨てられる。

吉増剛造の詩を読み始めてもう45年経つ、既に老境にある彼は、だが、今も尚新しい表現の方法に挑戦し続けている。私は全力を尽くして、その試みにどうにかこうにか追い付く事が出来ている。これは幸福な出逢いだ。

そして思うのだ、私の幸福は、吉増剛造の詩集を選んだ事ではなく、彼の詩集に選ばれた事にあるのだと。

私は多くの詩人の詩に、全身を晒して生きて来た。これからもそうあるだろう。私は詩人に選ばれて、生きながらえている。

20240302

だれか、来る

ノーベル賞作家ヨン・フォッセの代表作『だれか、来る』とエセー『魚の大きな目』、そして訳者河合純枝の『解説』が収められている。


『だれか、来る』は、何とも不思議な戯曲だ。

「彼」と「彼女」は、過去を捨て、二人だけの楽園を夢見て「家」にやって来る。しかし過去からは逃れられない。古い家には、先住者の遺物があり、その人たちの若い頃の写真がいっぱい貼られている。否応なしに、過去の時間に引き戻され、過去は現在となり、同じ平面で重層する。

そして突然、やっと得たと思えた楽園への入り口に立ちはだかる若い「男」。

「彼」と「彼女」は「男」の出現により、微妙にすれ違い始める。

話はこの様に要約出来る。と言うより、それしかない。

それしかないが故に、酷く難解だ。

ヨン・フォッセは何が言いたいのか?その問いに答えは無い。

台詞は非常に短く、断片的で、何度も反復する同じ表現。そして、この戯曲では、記載は少ないが「間」という言葉と言葉との間隔。言葉の断片の行き交うその間隙から滲み出す微妙な揺れ。観客はそれらからヨン・フォッセの「表現」を探り当てなければならなくなる。

読者は芝居で発せられる「声」を、嫌が上にも想定して読まねば、この戯曲からは何も与えられないだろう。

「声」と「間」、それがこの戯曲の全てだと言っても過言ではあるまい。

読んでいて、これと似た読書体験を、最近したと思い当たった。吉増剛造の詩。彼の詩は、彼の朗読を思い浮かべながらでないと、理解不能になる。

それと似た味覚が、この戯曲にはある。

そうなのだ。この戯曲を読んでいて、強く思ったことがある。これは戯曲の形をした詩なのでは無いか?

そう思うと、この戯曲が「分かる」。私たちはこの「声」と「間」に身を委ね、思う存分それを味わえば良い。

そうすれば、この戯曲に登場する「彼」と「彼女」は、現代のアダムとイブだと言う事に、素直に頷けるだろう。

良質な戯曲に出逢えた。

20240226

初期作品集

『石牟礼道子全集不知火第一巻』に収められた作品群である。

石牟礼道子の原点が『苦海浄土』にあるとするならば、この作品集に収められた作品群は、原点以前の作品たちと呼べるのかも知れない。

全集ではそれらをエッセイ、詩、短歌とジャンル分けし、それぞれを、ほぼ作成年代順に纏めてある。石牟礼道子はその作家人生を、詩人、歌人としてスタートさせた事が分かる。


『苦海浄土』以後に見られる、魂を高みに運んでくれるような精神性はまだない。若書きの荒削りな作品が並ぶ。だが、そこには異様なまでに荒々しい、激しさと力強さがある。

石牟礼道子が師と仰ぐ蒲池正紀さんは、石牟礼道子を歌誌『南風』に誘う時、

あなたの歌には、猛獣のようなものがひそんでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがよい

と批評したそうだ。よくぞ見抜いて下さったものだ。

作品に一貫として流れているのは、弱い者、小さい者に寄り添おうとする姿勢だと思う。最初期の詩は、蟻に向けられている。これは石牟礼道子の全生涯を通じて、貫かれている姿勢なのではないだろうか?

エッセイでは、早くもその目が水俣病に向けられている。石牟礼道子にとって水俣病は、社会問題以前に、身の回りの郷里に起こった、ひとつの事件としてあったのだ。

石牟礼道子は、本によって育てられた作家ではない。本は教科書くらいしか読まなかったと言う。彼女の歌のリズムは、母親の話し言葉にあったとエッセイで語っている。母親の話し言葉は美しく、殆ど歌であったと言う。

そこで合点が行くのだ。彼女の方言へのこだわりは、(初期作品に既に現れているが)体裁の調った「標準語」による本からではなく、話し言葉から文学を学んだ故なのではないか?

エッセイにしろ詩にしろ短歌にしろ、その作品は年代を経るにつれて表現力が研ぎ澄まされ、「魂の秘境」へと近づいてゆくのが分かる。そのダイナミズムは、石牟礼道子を読んで来た者が『石牟礼道子全集不知火第一巻』に辿り着いて知る、何よりの醍醐味だ。

20240216

CBDの科学

日本はいつもアメリカを追い駆ける。

日本では1万年以上前から大麻を生活用品として利用してきた歴史がある。第二次世界大戦直後のGHQの占領下でメモランダム(覚書)が発行され、全ての大麻類が全面禁止になり、大麻草の利用も全面禁止となった。ところが、当時の農林省は、繊維製品や魚網などで、生活に不可欠な農作物であるとGHQに進言し、都道府県知事の許可制となって、栽培が継続されることになった。

一方で麻薬取締法と大麻取締法は1948年7月10日という同日に施行されたが、医師の取り扱う「医療品」と農家の取り扱う「農作物」が区別された為、別々の法律として、管理下に置かれた。

アメリカの力によって、大麻の使用は禁止されたと考えて良い。

だが、そのアメリカが動き始めた。

医療用大麻の使用を認める州が続出し、嗜好品としても認める流れになって来たのだ。

こうなると日本もそれを追い駆け始める。

大麻取締法の改正に向けた動きが出始めたのだ。


本書は、医療用大麻の第一人者による、大麻由来成分CBD(時にはTHCも)の薬効を、網羅的に概観した医学書である。

原題はCBD:What Does the Science Say?

様々な憶測や噂が飛び交っているが、現代医学では、どう見られているのか?それを纏めている。

読解には苦労した。予備知識が40年も前の受験生物学のものしか持ち合わせていない。本書には、様々な病気の、最先端の知識が詰め込まれている。それをいちいちネットで調べながら読んだので、時間が掛かってしまったのだ。

本書はCBDの化学的及び薬学的特徴から始まり、てんかん、癌、自己免疫疾患、不安、PTSD、うつ病、統合失調症、依存症などとありとあらゆる角度から大麻由来成分の働きを、事細かくチェックしている。

読んでいて歯痒かったのは、至る所で「〜の検査が必要」「〜の研究が不足している」と結ばれている事だった。

医療用大麻の歴史は浅い。つい最近になって、ようやく議論が始まったばかりなのだ。研究がそれ程進んでいない事は、驚く事では無かったのかも知れない。

殆どの研究はin vitroによるもの、in vivoでの研究は少し。と殆どが前臨床試験の段階であり、ヒト臨床試験が組織的に行われているものは、僅かな例に留まっていた。

分かった事は、CBDは万能薬ではない。だが、かなり広範囲に薬効が認められるか、その可能性がある成分で、しかも副反応がないという事実だ。

本書で、議論は極めて慎重に進められている。決して楽観視していない。むしろ大麻研究が何十年も放置されてきた歴史に苛立っている。

本書の結論は12章の「科学はここからどこに進むのか?」に述べられている事に尽きるだろう。

ヒトのさまざまな疾患に対するCBDの医療効果については、in vitroおよび前臨床in vivo試験からのエビデンスが豊富に存在することは明らかだが、こうしたエビデンスを裏付ける、ヒトを対象とした臨床試験はほとんどない。これらの主張は、質の高いRCT(ランダム化比較試験)で評価されることが極めて重要である。今のところ、CBDが持っていると主張されている効果の多くは、臨床試験が完了してその主張が裏付けられる、あるいは反証されるまでは、誇大広告の域を出ない。主張されている効果は、抗不安作用について最近報告されている(Spinella et al.2021)のように単に期待に基づくプラセボ効果にすぎないのか、それとも本当に臨床効果があるのか、その答えを提供するのはRCTのみである。

本書は、CBDに医療効果があるという主張が何らかの基本的な科学的根拠に裏付けられている適応症について概観したものである。つまり本書はこの、(薬物代謝肝酵素との相互作用には注意が必要ではあるが)毒性が比較的低く、THCのような「ハイ」を生じない非常に興味深いカンビノイド化合物がもたらす希望と単なる誇大広告を見分けるための、少なくとも出発点にはなるだろう。

議論は始まったばかりだ。そうした段階にある現在、冷静で網羅的な本書が出版され、日本語に訳されたという事実は、その議論を慎重に行う為に、極めて意義深いものになると、読み終わって感じた。

基礎はじっくりと作られたのだ。